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    日本史

    1: (っ´ω`c)きょーちゃん 2016/07/15(金) 14:16:25.20 _USER9
    斎藤一の写真見つかる 53歳当時、新選組生き残り
    2016.7.15 08:18

    江戸時代末期に反幕派を取り締まった新選組の幹部として活動し、明治維新後も生き残った斎藤一について、
    明治30年の1897年に妻や息子2人と共に撮影した写真が残されていたことが15日、
    歴史研究家のあさくらゆうさん(47)や子孫らへの取材で分かった。

    斎藤は残された史料や写真が非常に少なく謎が多い人物とされており、これほど鮮明な写真が見つかるのは珍しい。

    撮影当時、斎藤は53歳で、東京高等師範学校(現筑波大)に勤務。
    家紋が入った羽織はかま姿で脚の上に帽子を置いて、同じく着物姿の妻トキヲと並んで手前のいすに座り、
    その後ろには軍服姿の長男の勉と着物姿の次男の剛が立っている。

    斎藤が住んでいた東京・本郷にある「写真師 中黒実」のスタジオで撮影したとみられ、
    卵白を原料に使った縦約14センチ、横約10センチの鶏卵紙にプリントされている。

    産経ニュース
    http://www.sankei.com/photo/story/news/160715/sty1607150004-n1.html
    家族と共に写る、新選組の幹部として活動した斎藤一(左から2人目)(提供写真)
    no title

    新選組の幹部として活動した斎藤一(提供写真)
    no title

    斎藤一の写真と共に残されていた台紙(提供写真)
    no title


    23: (っ´ω`c)きょーちゃん 2016/07/15(金) 14:22:55.45
    >>1
    イケメンじゃん
    長瀬智也みたいなハッキリした顔立ちだね

    38: (っ´ω`c)きょーちゃん 2016/07/15(金) 14:28:35.30
    >>1
    なかなか格好良いな

    24: (っ´ω`c)きょーちゃん 2016/07/15(金) 14:23:23.43
    若い時はイケメンな風貌だな

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    250px-Kobayakawa_Hideaki_cropped

    1: 餡子先生 ★ 2016/06/26(日) 11:55:04.80 _USER9
     関ヶ原の戦い(1600年)で戦国武将・小早川秀秋(1582~1602年)が西軍から東軍に寝返った際、決断が遅れたのは過度の飲酒で肝硬変から発症した肝性脳症による判断力低下の可能性があるとするユニークな説を、兵庫県姫路市御立東の脳神経外科医、若林利光さん(63)が秀秋の当時の病状などを記した史料からまとめた。

     26日に茨城県つくば市で開かれる日本病跡学会総会で発表する。

     戦いで西軍側の秀秋は寝返りを誘われていたがなかなか動かず、東軍を率いた徳川家康が怒り出すほどだったとされる。戦闘開始から約4時間後、西軍・大谷吉継を襲ったのをきっかけに西軍の武将が次々に寝返り、東軍勝利につながった。

     若林さんは、安土桃山時代から江戸時代初めに活躍し、秀秋も診た医師・曲直瀬玄朔まなせげんさくの診療録「医学天正記」の記述に注目。秀秋について「酒疸一身黄 心下堅満而痛 不飲食渇甚」(大量の飲酒による黄だん、みぞおち付近の内臓が硬く痛みがあり、飲食できずのどの渇きが激しい)の記述から、肝硬変と考えられるという。

     飲酒後に嘔吐おうとし、赤い尿が出たともあり、肝性脳症を併発するほど悪化していた可能性が高いと判断。同脳症では指示への反応や判断が遅くなるため、若林さんは「関ヶ原での決断の遅れの要因では」と推察する。

     国立国際医療研究センター肝炎情報センター(千葉県市川市)も、大量の飲酒は肝硬変の原因の一つで「記述にある症状からは肝硬変が疑われる」という。

     小和田哲男・静岡大名誉教授(戦国史)は「寝返りの遅れは東西どちらが有利か最後まで迷っていたとするのが通説だ」とした上で、「当時は15歳頃からの飲酒も多く、医師の見地からはそのような解釈も成り立つのでは」と話している。

    http://www.yomiuri.co.jp/science/20160625-OYT1T50018.html

    43: 名無しさん@1周年 2016/06/26(日) 12:19:46.27
    >>1
    この人のおかげで
    全国の小早川さんが
    400年たった今でも被害こうむってるからね
    こういうことにしたいんだろうな

    79: 名無しさん@1周年 2016/06/26(日) 12:50:36.78
    >>72
    早々に小早川家で引き受けないと、
    毛利本家に押し付けられるところだったんだから、仕方ないでしょ。

    167: 名無しさん@1周年 2016/06/26(日) 14:10:35.39
    >>1

    重病人じゃねえかw

    それなのに重い鎧兜を着て松尾山まで自動車も無しに移動したんだろ?www

    そりゃもう判断力とかありえねえわなw

    ていうか、そんな重病人をアテにした三成が悪いわw

    4: 名無しさん@1周年 2016/06/26(日) 11:56:41.54
    木村拓哉も肝疾患だったのか

    「【日本史/戦国時代】関ヶ原の小早川秀秋の寝返りが遅れたのは、「肝硬変」のせい?」の続きを読む

    1: 名無しさん@教養ちゃんねる 2015/02/02(月) 20:39:51.58 et BE:811796219-2BP(1000)
    纒向遺跡から占いの骨が初出土 弥生文化も継承か
    http://www.asahi.com/articles/ASH1Y4CPLH1YPTFC008.html
    no title

    448: 名無しさん@教養ちゃんねる 2015/02/05(木) 05:32:23.12 et
    >>1
    纒向遺跡から占いの骨が初出土 弥生文化も継承か 2015年1月30日

    女王・卑弥呼(ひみこ)が治めた邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡(国史跡、3世紀初め~4世紀初め)で、
    占いに使われた動物の骨「卜骨(ぼっこつ)」(3世紀後半~4世紀初め)が初めて見つかった。市教委が29日発表した。
    弥生時代に日本に広まった占いの方法が、その後もヤマト王権の中心地とされる纒向で継承されていたことになる。

    動物の骨などを焼いて、表面に生じたひび割れや色調の変化で吉凶を占った方法は、中国の史書「魏志倭人伝」にも記録されている。
    今回見つかったのはイノシシの右肩甲骨で、長さ16・7センチ、幅6・7センチ。
    焼けた棒状のものを当てたとみられる丸い焼け跡が3カ所にあった。
    卜骨は中国から伝わり、弥生時代はシカやイノシシの肩甲骨を使う例が多く、古墳時代以降はウミガメの甲羅を使う卜甲(ぼっこう)も現れた。

    2009年に確認された3世紀前半としては国内最大規模の大型建物跡の東側で、楕円(だえん)形の穴(直径約2・2メートル、深さ約1・1メートル)から土器や木製品、獣骨と一緒に見つかった。
    今回、卑弥呼の時代の建物跡は確認されなかった。

    市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は、骨や亀の甲羅を使う占いが7世紀後半からの律令国家で国の機構の一部に組み込まれたと指摘。
    「弥生時代に民衆レベルで行われた骨占いが、国家的なものに変わっていく経緯を考えるうえで重要だ」、
    石野博信・兵庫県立考古博物館長(考古学)は「卑弥呼の後継者の女王・台与(とよ)の時代に伝統的な卜骨が行われ、
    居館域の東側に祭祀(さいし)を行う特殊な空間が広がっていた可能性もあるのでは」と話す。

    5: 名無しさん@教養ちゃんねる 2015/02/02(月) 20:43:47.64 et
    魏志倭人伝って信用できるのかな

    406: 名無しさん@教養ちゃんねる 2015/02/04(水) 12:39:21.69 et
    >>5
    中国人は昔から記録マニアだから、
    数値の正確性以外は割と信頼できる。

    407: 名無しさん@教養ちゃんねる 2015/02/04(水) 12:43:08.94 et
    >>406
    明史日本伝とか割とええ加減だけどなあ



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    1: 名無しさん@教養ちゃんねる 2015/01/12(月) 13:56:18.29 ●.net BE:614796825-PLT(17667) ポイント特典
    江戸時代の弁当箱、現代風に 京都の学生が復活取り組み
    http://www.kyoto-np.co.jp/education/article/20150106000067
    no title

    69: 名無しさん@教養ちゃんねる 2015/01/12(月) 14:39:19.84 et
    鍛えてなんてないよ>>>1
    単に毎日仕事もせずにフラフラして年貢を食いつぶして食っちゃ寝していただけ
    当時の侍の日記にそのへんの生活の様子がちゃんと書かれている
    江戸に詰めている武士は毎日食べ歩きしたり芝居見に行ったりして遊んでた

    3: 名無しさん@教養ちゃんねる 2015/01/12(月) 13:57:39.14 et
    無礼討ちしたいなぁ~

    92: 名無しさん@教養ちゃんねる 2015/01/12(月) 14:48:22.24 et
    >>3
    以前読んだ本によると、無礼討ちって実際にやったら、
    よっぽどの理由じゃなければ切腹させられる場合もあったようだ
    だから、町人とトラブルにならないように歩くときも気をつけてたとか。

    104: 名無しさん@教養ちゃんねる 2015/01/12(月) 14:55:03.77 et
    >>92
    トラブルに巻き込まれないようにするマニュアル本とか売ってたらしいからね
    そのことを分かってて、ちょっかい出して遊ぶ人も居たらしいw


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    1: 番組の途中ですが名無しです ◆GEMkLJbZ/. 2015/01/10(土) 10:17:32.49 et BE:219241683-PLT(13001) ポイント特典
    京都・仁和寺に370年前の落書き 大工?天井梁に堂々と印刷用画面を開く

     世界遺産の仁和寺(京都市右京区)で修理が進んでいる観音堂(重要文化財)で、
    天井近くの梁(はり)に370年前の 大工が書き残したとみられる落書きが見つかった。
    修理を担当する府教育委員会は「これだけ堂々と記した落書きは珍しい」と驚いている。

     府教委によると、落書きは観音堂南側の外陣上部(虹梁(こうりょう))の材木の上面に書かれていた。
    「寛永弐拾壱年卯月十三日」(1644年4月13日)の日付とともに、
    「書おくも かたみとなれや 此すみふて  我わいつく之 つちなるらん」との歌が記されていた。

     「いつどこで死ぬかわからぬなか、ここに書き残すことを形見にしよう」という意味で、
    当時、巡礼者の間で流行した歌の定型だった。
     作者は分かっておらず、江戸期に同じ歌をもとにした類似の落書きは山形県や茨城県、
    千葉県、新潟県、高知県などの仏堂に数例見られるが、京都で見つかった例はない。

     歌は、縦約27センチ、横約80センチの範囲に、大胆な筆遣いで書かれていた。

    続きはうぇbで
    http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20150109000055

    観音堂の梁の部材に書かれているのが見つかった江戸時代の落書き(京都市右京区・仁和寺)=上=と、
    落書きの部分に赤外線を照射し、文字を浮かび上がらせた画像(京都府教育委員会提供)
    no title

    14: 番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です 2015/01/10(土) 10:25:31.16 et
    四国の寺にも昔の文化人が残した落書きが結構ある

    18: 番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です 2015/01/10(土) 10:29:22.48 et
    宮大工の棟梁辺りだろうな

    20: 番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です 2015/01/10(土) 10:30:13.27 et
    ぶっちゃけ370年もわからないような場所なら落書きしてもいいだろ


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